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真贋 序

真贋序 
 人類の歴史は、飢餓の克服と、自由の獲得という二大テーマの
展開の歴史であったと言っても良いが、その大部分を獲得した国
家・個人は、果たしてその果実を自分のものとしているであろう
か? 衣食足って礼節を忘れ、無制限の自由を獲得して節操を失
っているのが現実であることに異論は無いだろう。
これは、自分で考えようとしないことに端を発しており、現世の
ほぼ全てのアノミーはここに発し、自分で自分の首を絞めている
のであることを述べるのが本稿「真贋の裏表」の目的である。
従って、本稿は僕の経験と論理的思考が全てであり、常識とか権
威というものと全く無縁のものだから、他の経験をしたり、権威
を獲得した人にとっては我慢のできない異論が多々出てくるだろ
う。非難攻撃は勿論ご自由だが、それに反論することは無いだろ
う。本文から「真」を汲み取って頂くほかは無いと考えるからで
ある。理屈などというものは、正反対の結論を尤もらしく出すこと
など朝飯前のことでしかないのだ。更に、「坊主憎けりゃ袈裟まで
憎い」という大方の普遍的な癖がアノミーをアノミーたらしめる
のである。

真とは何か? 贋とは何か?
これを善悪の基準として捉えると、その定義が確立され得ない以
上結論が無いことは歴史の証明する通りである。然らば、真贋と
は永久に自家撞着を繰り返すのみの概念でしかないのだろうか?
ここで定義する真贋とは、「普遍」と同義語としての概念である。

人間の営為は、観念的には一貫して“幸福”というような主観的
な損得を追求するものであろうが、その多くを獲得したとき、人
は決してそれに満足することがなかった。これは完全な充足が保
証されなかったからではないだろう。充足の概念は一般化できる
ものでなく、人の欲望は無制限に拡大する余地があるから、ゴー
ルはないのであろう。
イデオロギー、思想、宗教といえども、その究極の定義は問われ
ることはない。モスクを埋め尽くす集団の見事に統制された礼拝
の儀式も、様々な価値観の寄せ集めでしかないだろう。

このようなAnomieを解決しようと格闘を続けてきたのも人類の
歴史である。例えばデカルトは、真贋を誤りなく判断する方法を
追求し、「方法序説」1)を著した。原題は「理性を正しく導き、諸
々の知識の中に真理を探求するための方法(序説)」だが、小林秀
雄は「方法序説などという堅苦しいものでなく、方法の話とかも
っと大胆に『私のやりかた』と砕いて訳した方がもっといい。」2)
と言っている。
「私のやりかた」は一時代の思想界を風靡したものだったが、そ
れがイデオロギー、思想、宗教にまで敷衍され普遍となったかと
いうとそうではない。デカルトは「方法序説」第一部の書き出し
で「わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性
があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を
異なる道筋で導き、同一のことを考察していないことから生じる
のである。良い精神を持っているだけでは十分でなく、大切なの
はそれを良く用いることである。大きな魂ほど、最大の美徳とと
もに、最大の悪徳をも生み出す力がある。」と言っている。
歴史を振り返ってみても、人の営為の多くが応用面では良く用い
られることが無く、教義を精緻化するほどに人類に惨禍をもたら
してきた。表面的な惨禍として代表的なものは戦争であるが、歴
史上最大の殺人を行ってきたのは宗教であった。

この世で普遍となったものがあるだろうか?
あらゆるイデオロギー、思想、文化、宗教で普遍となったものは
皆無である。過去から現在に至るまで普遍であったのは、統制さ
れることのなかった人間の欲望のみである。
例えば、共産主義はその崇高な理論に異を挟む余地は無いように
思えた。僕を含め、若い人々は「共産党宣言」に酔いしれたが、
その文学的な扇動に乗ったものの、人間とは何かという根本問題
まで洞察することができなかったことが暴露された。
即ち、人間の欲望というものが如何に多様で、常に自由を求める
ものであるかという歴史的事実に思い至ることがなかった。その
結果は、必然的に全体主義へと向かい、共産主義は一思想として
は史上最大の殺人を犯すに至ったのである。
(主義・主張が目的達成のためにどれだけの人命を犠牲にしたか
は、「計量革命学」の項で述べる。)

歴史上、主義主張が崩壊した原因は、例外なく内部矛盾である。
真贋の見極めができなかったための自己崩壊である。
このように、人間の欲望・損得に関する規範は、普遍化すること
ができなかった。真贋を確定することができなかった。

Bertrand Russel は、哲学とは正確な知識を云々することのまだ
できない事柄についての思弁で、哲学者が二人揃って同じ答えを
することは無い、とDescartesと同様のことを言っている。
また、哲学には、仮説の領域で想像的世界観を広げることと、知
識のように見えるものが、如何に知識でないことかを気付かせて
くれるという二つの効用があると言っている。
愛とか善のような抽象概念は言うに及ばす、ノーベル賞にも創設
された政治(平和賞)や経済も科学になり得ないものであること
は自明であろう。これをなり得るものと断定するのは、際どい仮
定の上に成り立つ原理主義のみである。
ノーベル経済賞受者2名を含むヘッジファンドLTCMは、空前
の金融破綻をもたらしたし(1998年)、Black-Scholes方程式を
始めとする最新の金融工学を駆使したと言われる、リーマンブラ
ザーズの破綻(2008年)も記憶に新しいところである。
一方、事柄が真に達すると哲学は科学という知識になるが、地動
説の例を引くまでもなく、科学とは損得や善悪とは無縁の知識で
ある。これを真性の“真”と言おう。
されば、この世が真性の真で埋め尽くされたとき、即ち、あらゆ
る事柄が疑問の余地がなくなるようなことがあり得るかというと、
勿論あり得ないことである。科学教とでも言うべき、このような
原理主義的な悪魔的救済を求める思想は、形を変えて過去に嫌と
言うほど現れては消えてきた。価値が固定化できるという勘違い、
価値と事実の取り違えである。
(この事例については、「ユートピアの悲惨」の項で述べる。)

真贋の論議は、有史以来延々と行われてきたが、ここで僕は先哲
の後追いをしようとするものでも、新しい思想を確立しようとす
るものでもない。もとよりそのような能力がある訳も無く、また、
同じ轍を踏むことが明白でもあるからだ。
ここで述べようとしているのは、ごく小市民的な立場で、真贋を
無視した思考や行動が、如何に膨大な損失を人類にもたらしてき
たかということ、自業自得の結果を、他人の誤りの結果であると
して、その論拠の確立に悪戦苦闘する、その風景を再鑑賞しよう
とするものである。
自己の利害を無意識にも補強しようとする言動(職業病)、その
扇動に乗って、主体的に考えようともしない(時として自分自身
を含む)衆愚への怒りでもある。

ひともすなるBlogといふものを、われもしてみむとてするなり。
1) René Descartes「方法序説」岩波文庫
2) 小林秀雄「常識について」文春文庫

タグ:真贋
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