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科学、直感、オカルト

 科学とは、広辞苑では「観察や実験など経験的手続によって実
証された法則的・体系的な知識」と定義している。これは前に述
べたように、真性の真と言うべきもので、真贋の観点から再定義
すると、「同一条件で検証すれば、誰が何時何処でやっても必ず
同一の結果が得られること。」と長らく思ってきたが、これは近
年の量子力学で得られた知識で否定されることになった。この結
果、ボーアなど多くの科学者が、東洋思想に傾斜することになっ
たのは周知のことだが、これは個人的には次元の問題と係わりが
あると思っている。(この問題に関する考察は別項で述べる)
 ここでは、そのような問題ではなく、「科学的」を語って不当
な利益を得ようとしたり、葵の御紋のように振りかざす科学音痴
やそれに惑わされている衆愚とその弊害について鑑賞してみたい。
 
地動説はコペルニクス(1473-1543) やガリレオ(1564-1642)が
言い出したことと思っている人が多いと思うが、文献上最初に言
ったのは、それより1000年近くも遡ったギリシャ・サモスの天文
学者で数学者のアリスタルコス(BC310-230頃)だった。 アリスタ
ルコスは、恒星と太陽は不動としたものの太陽中心説を唱え、現
代でも通用する幾何学を元に、地球の直径は月の3倍、太陽の直
径は20倍などと計算しているが、これは当時の測定技術が余り
にもお粗末であったことによる。ガリレオと同時代人のケプラー
(1571-1630)は、ケプラーの法則を唱えたことで、天体物理学
の先駆者と言われているが、天文学者の多くがそうであったよう
に占星術家でもあり、数霊術により惑星は6個であるとか、天体
音楽論(プラトンやプトレマイオスもその信奉者)より、宇宙は
音階と数的な統一性により創造されたという考えから、膨大な論
文をものしている。ケプラーの法則は、荒唐無稽の膨大な論文の
中で理論的評価に耐えるものとして、ガリレオ、ニュートンに引
き継がれ、古典物理学の完成に寄与したと言える。
このような直感や霊感に導かれた「形の美しさ」は多くの人々の
心を捉えてきたが、プリニウスなどは「見世物的な精妙さ」とし
てこのような考えを退けている。しかし、真に至る過程で直感は
重要な働きをしてきたと言えるだろう。
 ところが、この直感は、用いられ方によってとんでもない贋を
創り出すことにも注意しておく必要がある。真贋論争の要点は、
それが公知の事実に基づいているかどうかと言うことである。
例えば、地球外生命が存在するかということが巷間良く取り上げ
られるが、これは現代に至るまで人知が到達していない知識であ
り、新しい事実が発見されない限り、その真贋は論述され得ない
ものである。
一部の科学教教徒は、SFのような世界はあり得ないと主張するが、
この宇宙に生命が生存しうるHabitable Zoneがどの位存在するか
を考えた場合、未だ確定的な知識はないものの、文字通り天文学
的な数になることは間違いのないところである。高等生物が生存
するのは我が地球のみと断言するのは、見えないところにあるも
のは存在しないと言うに等しく、真贋を無視した別の意図がある
と言わざるを得ない。
注:太陽系の属する銀河系には、2千億以上の恒星があり、全
宇宙には銀河系規模の銀河が1千億個位あると推定されている。
即ち、我が太陽系と同等の条件が200垓個あってもおかしくない
訳で、地球のようなHabitable Zoneはぐっと絞られるであろうと
根拠無き想像はするものの、その中の1個(太陽系)についても
火星探査で大苦労するレベルであり、他の恒星系については、全
く未知なのだ。 
地球外生命体探査は、1960年代以降世界中でオズマ計画などを
始めとする数々のProjectが実行されているが、現在に至るまで
確定的な情報は得られていない。
 このような真っ当な試みとは反対に、科学を語った贋は、一向
に衰える気配が無い。ニュートンは英国国策の偉人だから、本当
に言ったかどうかは知らないが、「我々は大海の砂浜で、一粒の砂
と戯れているに過ぎない。」と言ったそうで、これは科学が未だ極
めて限定された部分の知識でしかない現代人の常識にも一致する。
 「科学」の言葉を冠すると、人は無条件に信じる癖があるようだ
が、とんでもない「科学」もある。その代表例が「ニセ科学」
である。大阪大学の菊池誠教授は、そのHPで、浩瀚かつ綿密な
ニセ科学批判を行っている。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/index-j.html
その矛先は、マイナスイオン、波動、水の結晶、ホメオパシー、
ゲルマニウム、EM菌、七田真、等々多岐に亘るが、これ等は何
れも事業として成り立っているものばかりである。
詳細は氏のHPに譲るが、マイナスイオン発生器(空気清浄器)
に至っては、わが国を代表する家電メーカーまでが製造しており、
さすがに近年は根拠無き効能を謳うようなことは控えたり、撤退
したりしているそうである。この様なニセ科学は、無益無害なら
まだしも、世に実害を及ぼすことが多々あるので、等閑視する訳
にはいかないものだ。
「水の結晶」は、江本某が考え出したニセ科学だが、水は言葉を
理解するというものだ。水に「ありがとう」などの言葉を見せて
結晶を作ると見事な形の結晶となり、「ばかやろー」などの言葉
を見せると、醜い形となる。ニセ科学を本業とする(?)たま出版
ならまだしも、講談社から著書が発行されていたり、これを道徳
の授業に取り入れている学校もあるというから驚く。
オカルトを授業で教えているのだ。
「平等」を履き違えて運動会での競争を止めたり、成績表を廃止
した教師達が連想されてくる。教師と言う職業人(ピンからキリ
までだが)が如何に常識が欠落しているかを示す典型例である。
 菊池教授は、ニセ科学の弊害の典型的な例として、有名なルイ
センコ事件を挙げている。ルイセンコは、ソヴィエト連邦におけ
る遺伝学の権威者だったが、スターリンに取り入り、メンデル学
派の学者達をブルジョワ的と言う理由を付けて追放した。
このため、ソヴィエト連邦の遺伝学は10年以上遅れたと言われ
ている。
このように、贋のネタは政治にも利用され、利害や風評が触媒の
役割を果たすのだが、基本は菊池教授も強調するように、主体的
にものを考えないということである。
 風評による流行は、健康食品と言われるものに多くの例が見ら
れる。近年では、野菜スープ、ビール酵母(2001)、豆乳(2003)、
黒酢(2004)、寒天(2005)、納豆(2007)、バナナダイエット(2008)、
トマトによるメタボ改善(2012)等々。またサプリメントも大ブー
ム中。
僕は良いと言われるものは比較的従順に取り入れる方だが、その
喧伝する効果を実感したことは一度も無い。多くの人は食事を薬
と思って食っているのだろうか? 薬とは毒の一種である。

ある高齢者向けの講演会で、まごわやさしい(豆、胡麻、わかめ、
野菜、魚、椎茸、芋)と言う話があったが、参会者の半数近くが、
心して毎日摂取していると挙手したのにびっくりした。
これなどは、医者の言い訳に乗せられただけのことだ。「貴方の
病気は**が不足したから起こったものです。」と。「いかのおすし」
と同根で、人を馬鹿にした話である。多種類の食品を同時に摂取
したら、食事の旨さも、有難さも半減し、人としての機能も低下
するに違いない。禅宗の僧侶の食事は、一汁一菜で、決して多種
類では無い。僕は食の優等生と言われるフランス料理のフルコー
スを食した後に嘔吐する不思議な経験が度々あり、長い間原因が
分からなかったが、今ではソースを始めとして多種類の食材が使
われた人工の味であったためと思っている。ついでに言うと、
食後のデザートは、服膺玩味した食事の余韻を一気に消し去るも
のであり、味覚と消化の能力を低下させるものと心得ている。
これなどは「僕の場合」と言うト書き付のもので、真はこうだと
言っているものではないが、大多数の人々がそれぞれの職業病で
作り上げられた迷信に左右され、疑うことが無いことを言ってい
るのだ。
 話が少し逸れたが、「オカルト」の考え方について述べておき
たい。Occult(隠されたもの)とは、神秘的なこと、超自然なさ
ま。(広辞苑)とある。僕の定義によると、広義には科学的な事
実に至っていない事柄、即ち「贋」を言う。この世の圧倒的な部
分、政治や経済・文化を含め、オカルトである。真に至っていな
いから贋という訳ではなく、評価を確定することができない現象
群=オカルトの中で我々は生活しているということである。
条件付で真と認められている万有引力の法則も、目で見たり、触
れて感じることができないと言う理由で、同時代の学者からはオ
カルトの非難が浴びせられていたが、実験検証により事実(真)
と認められるようになった。

 「百匹目のサル現象」というのがある。これは、Lyall Watoson
が著書「生命潮流」の中で、創作した疑似科学に分類される生物
学上の現象である。幸島の一匹のサルが芋を洗って食べるように
なり、それを真似るサルが閾値(Watsonは百匹と仮定している)
を超えると、その行動が群れ全体に広がり、更に場所を隔てた高
崎山のサルに突然同じ行動が広がったというもので、「新自然学」
の確立を目指し、自然現象と超自然現象を生物学的に説明しよう
としたものだ。これにニューサイエンス系の“志操高き”人々が
飛びつき、船井幸雄など多くの人々がお追従の著作をものしてい
る。(船井幸雄、七田眞「百匹目のサル現象」など)
船井幸雄は度量の広い人らしく、幸塾セミナー(京都国際会館で
開催)には毎年2千人位の聴衆が詰めかけていた。僕も3回ほど
参加したが、例の江本教祖など、菊池教授のHPで槍玉に挙げら
れた人物の公演などがあった。一番面白かった出し物は、壇上に
数十人の聴衆を立たせ、船井氏の気合で体が硬直し床に手がつか
なくなるというものだったが、一人だけその催眠に掛からない人
物がいた。明らかな反抗姿勢に僕は拍手した。
「百匹目のサル現象」は、Watsonが引用したという河合雅雄の
論文に引用された筈の記述は無く、伊谷純一郎などのサル学者も、
Watsonが言うような事実は無いと言っているそうだ。
河合雅雄は「文化は同時発生するもので、芋洗いも世界同時革命
も同じ。100人が信じたら世界は変ると言ったら、宗教家は皆そ
の話をしたがるでしょうな。」と言っている。
この言葉の通り、サル現象を中心教義とした宗教集団がある。
(彼らは宗教とは言わないが)マハリシを教祖とするTM集団で
ある。(TM:Transcendent Meditation. 超越瞑想)TMの理屈は、
1%の人々が念ずるとその思念は集団全体に及ぶというもので、集
団瞑想で世の中が良くなると言う。船井氏も信者の一人だ。
僕は10万円弱を払い、果物を供えた儀式を通過して入団したが、
目的は麻原彰晃とTM信者の行うダルドリー・シッディの違いの
理由を知ることだった。ダルドリー・シッディとは空中浮揚のこ
とで、結跏趺坐の姿勢で飛び跳ねるように浮遊するそうだ。写真
で見ると、麻原の浮揚は苦渋に満ちた表情をしているのに対し、
TM信者達が円形に集団で行う浮揚は、喜びに満ちている。
TMは、際物と勘違いされると困るという理由で、これをひた隠し
にしていると物の本に書いてあったが、教団事務所には集団シッ
ディの写真がデカデカと貼ってあった。

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お客様は王様か?

お客様は王様か?
 「お客様は王様」ということが言われはじめて久しい。あらゆ
る企業活動が、これを金科玉条にしているように見える。
嚆矢は松下幸之助だろうか。氏は「水道哲学」なるものを喧伝し、
万人が水道の水を使うように安くて有用な商品を使用することが
できるようになれば、民心は安定し、企業も栄えるというものだ。
企業の存立は売り上げによって保たれるものだから、売り上げが
増大し、しかも民心に寄与するとなれば、八方満足、流行の言葉
で言えばWin-Winの関係を築くことになり、申し分ないと言え
る。しかしこの命題には、貧相な正論の臭いが付きまとう。
「お客様は餌食です。」と言えば、企業は結果として真当な活動
ができなくなり、企業の存立さえ維持できなくなるだろう。
皮肉な見方をすれば、自己の存立を正当化するための方便と考え
ることもできる。
また、物質的な充足が全ての目的になり得るかと言えば、そうで
はないことも首肯できるだろう。
現代の企業戦術の大部分が、「お客様は王様」を至上命題として
展開されているのを見ると、手段が目的になっているのではない
かと疑わせるものもある。僕の経験から言うと、このような風潮
は実は1980年代以降世界的に蔓延してきたものである。

 韓国には、北部の無煙炭を工業地帯の南部に運搬することを主
目的とする産業線と呼ばれる鉄道がある。全線の電気設備はフラ
ンスのBrown Boveri社が納入していたが、沿線に重篤な通信障
害が発生し、特に長距離電話は全く通じないという状況であった。
原因は、安価なサイリスタ一段制御による機関車から発生する高
調波(実電流から仕事をするための商用周波電流を差引いたひず
み波成分)が並行する通信線に誘導障害を惹起するものだった。
KNR(韓国鉄道庁)はBB社に度々クレームを提起したが、解決
のノウハウが無く、契約書通りを楯に頑として受付けなかったと
いう。このような状況で、僕が所属していた専門メーカーに相談
があり、調査に出向することになった。出向に当たっては、当時
未だ朝鮮蔑視があった時代背景もあり、会社からは「ノウハウは
絶対に漏らすな。」という厳命を受けた。
現地の沿線変電所を視察して驚いたのは、変電設備がおもちゃで
はないかと思う程チャチなもので、日本規格では不合格になるも
のが大半であったことだ。現実に事故が多発し、碍子が吹き飛ん
だ遮断機などがそのまま運転されている状況だった。
KNRの技術者に、「規格違反の機器は、BB社に取り替えさせる
べき。」と言ったが、「彼らは見積書を持ってくるだけで、何も
相談に乗ってくれない。もう彼らに何も言う心算は無い。今度
来たら蹴り倒してやる!」と相当な剣幕だった。
1960~70年代当時は、BB社だけでなく、価格が最重視される
受注競争を勝ち抜くため、日本の主要重電機器メーカでも途上国
ロットと称する安かろう悪かろうの製品を国内向けとは別に作っ
ていたことが分かっている。このような製品は保証期間の1年間
は事故を起こさないように設計するのが‘技術力’とされていた。
1年経過後に多発する事故に対しては、契約書で防衛し、次の更
新需要に備えるのだ。途上国では、多くの機器が国産できない状
況にあって、外国の機器を採用せざるを得ないのだが、この結果
は現場にしわ寄せされ、現場の技術者には海外製品・技術者に対
する不満が蔓延していた。特に歴史の問題を抱えた日本に対して
は警戒心や敵愾心が強く、渡韓当初はあからさまな非難攻撃を幾
度となく受けた。この様な状況にあって、現場・現物・現実主義
の僕はハングルの勉強をし、打ち合わせで理解されていないと思
われることの解説を含め、打ち合わせ翌日にハングルで打ち合わ
せ記録を提出することを続けた。また、変電所視察で散見された
商売とは無関係の問題点についても、現場で測定したり修理を手
伝ったり、改良提案書を提出したりした。これには回路技術の専
門家としてのノウハウが大いに役立ったが、ノウハウは与えるな
と会社から厳命されたことは完全に無視した行動だった。
あるのは、同じ技術者同士の理解の共有で、顧客に喜んでもらう
ことが大き動機だった。顧客からは「貴方は寝ずに仕事をする。」
と急速に打ち解けていった。(現実に韓国に行くと、資料作成に
徹夜の連続だった。)このような行動で顧客技術者の共感を得た
ためか、僕は変電設備の無償コンサルの様相を呈し、果ては韓国
電力との交渉も、KNRを代行して行うまでになった。さすがに
これにはKNRの他部門から問題視されたようだが、電気局長の
意向で規定路線となった。
 この様な経緯で、産業線全19変電所に歪波を除去する交流フ
ィルタ設備を納入し、通信障害の問題は解決した。
技術者として、諸々の問題を解決していく達成感を共有した結果
はどうだったか? 商談は交流フィルタ設備の納入後も続き、BB社
製品の取替え需要にも対応することができ、これは僕が現役を引
退するまで、ほぼ20年に亘って続いた。国際入札が義務付けら
れた国有企業から、BB社の恐らく2倍以上の価格の製品をこれ
だけの長期間に亘って採用頂けたことは、驚異的と言えるが、他
社製品で貧すれば鈍するを味わせられてきた面々は、入札に当た
って他社排除の仕様とすべく相談があり、これに協力してきたこ
とも一因だと考えられる。
 30回以上に亘る韓国出張では、鉄鋼メーカーなどにも営業活動
を広げていったが、ASEA社など世界一流のメーカーが納入した
設備についてもKNRと同様の状況で、海外メーカー不信が蔓延
ていた。「海外メーカーは、売りつけるだけ売っておいて、クレー
ムには一向に対応してくれない。」と。Asea が納入したSeoul
地下鉄の設備は重篤な技術的な問題を引き起こし、大幅な運転
開始遅延により市長が更迭されたのはその一例に過ぎない。
僕はここでも技術者根性を発揮し、顧客の困っている問題を無償
で解決していった。これらの企業のいくつかからも受注すること
ができたが、何れも問題解決の達成感を共有したことが結果に結
びついたものである。
お客様は王様でなく、経済的な信頼性の高いシステムの構築を使
命とする技術者仲間だった。
 韓国への設備機器納入が一段落した1980年代に、拡販目的で
渡韓し、かつて訪問した鉄鋼メーカーやSamsung電子などを訪
問した。そこで聞いた話は、十数年前とは全く異なった拡販環境
だった。海外メーカーへの非難は影を潜めるだけでなく、彼らへ
の賞賛が聞かれたのである。クレームを提起すると、その日のう
ちにやってきて、原因調査の測定など無償でやってくれる。
大手のメーカーは韓国内に出張所などを設け、技術者も常駐して
いる。等々。この様な変化は、世界的に「お客様は王様」が言わ
れ出した時期に一致しているように思える。
 この様な激変の一例は、国鉄民営化(1987年)にもある。
国鉄は、メーカー各社から「お客様は餌食」を実行された代表例
であり、JRS(国鉄規格)はメーカーが都合の良いように作った
ものが大部分で、談合や不当な高値販売が当たり前だった。
この様な状況で、現場の規律も乱れに乱れ、真面目に仕事をする
人は、組合の敵として糾弾される現場を幾度と無く見てきた。
切符切りが、ふてぶてしい態度で客に因縁を吹きかけるなどは日
常茶飯事で、不愉快な経験をされた方も多いだろう。
この様な職員の態度が、民営化を境に激減あるいは皆無となった
ことを鮮明に覚えている。原因は何であったか? 上記の例と同
じように、顧客に奉仕することなく、自己の存続はあり得ないこ
とが認識されるようになったためであろう。
仕事の目的が明確になり、それに生き甲斐を感じることができる
ようになったためだろう。

 以上のような業務風土の変革は、何れも自己の利益を確実なも
のにするという動機で起こされたものである。
近年はコンビニでも、「ありがとうございました。またお越し下
さいませ。」とロボットのように決まり文句が言われるが、自己
の利益に視野が狭窄された思考、行動が破綻するのは、理の当然
である。

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偏見

 偏見とは「かたよった意見。中正でない見解。」(広辞苑)であ
るが、少し見解を加えると、自己の持つ優位性を無条件に防衛す
るため、それを阻害するあらゆる事柄に反抗・反撃・危害を加え
ようとする心理的・体質的作用である。優位性とは立場の相違で
しかなく、生得的に得られたものや、属する集団の利害に関るも
のであり、自己防衛という人類普遍の癖の一つ、人として最も卑
しい現象、「贋」の一種である。
(偏見を「贋」の一種と断定する理由は、後段で述べる。)

 国鉄本社の幹部であった僕の顧客かつ友人から聞いた話。
アメリカに新幹線のコンサルで出張した時のこと、相手は黒人の
エリートであったが、一緒に昼食をとることになり、街に出たが
手近に白人専用食堂しかなく、何のためらいも無く入ろうとした
ら、そのエリートが「僕は入れない」と渋るので、何を構うもの
かと強引に入ったとたん、レジの若い女の子がその黒人に水をぶ
っかけたという。友人は「黒人蔑視がこれ程とは思わなかった。
申し訳無いことをしてしまった。」と言っていた。
 このような蔑視の環境は、個人が主体的な意思で考え出すもの
ではなく、集団の利害から集団意識として醸成され、個人は集団
意識に同化され、体質化され、殆ど無意識に偏見行動を起こすも
のらしい。即ち、偏見に限ったことではないが、主体的に物事を
考えないことが「贋」を蔓延らせるのだ。
例えば、つい最近まで朝鮮人蔑視というのがあった。僕が子ども
の頃、偏見などとは無縁と思われるような大人までが、朝鮮人蔑
視を口にしていたのを思い出す。「奴らはどうしようもない木偶の
棒だ。」と。そして現実にそのような状況も一般的にはあったので
ある。これは前に記したような、強制自白と同様の構造があった
ためと考えられる。「馬鹿、馬鹿」と周囲全体が言い続けると、本
人は反論することに疲れて、馬鹿になる方が楽になることに妥協
してしまうのだ。即ち、蔑視する方も、蔑視される方も主体的な
意識無く妥協することによって、束の間の安寧を貪るのである。
勿論、両者の側に「嘘の自白」を頑として撥ね付ける人々が常に
居た。しかし、「真」を主張する声や行動は、世の空気に対抗する
には圧倒的に弱体で、政治や経済の時代的経過を待たなければな
らなかった。
 このような偏見の系譜は、自由平等という人間の基本的人権と
は無関係に、自己の利益を無意識的に守ろうとする空気から始発
しており、体制の如何に関らず常に存在してきた。

男尊女卑は、現在に至るまで各地に巣食っているが、性差という
偏見が役立つ社会的な環境・文化も、命脈を保ってきた原因の一
つだろう。
一時ウーマンリブと言う女権拡張運動が盛んになった時期がある
が、これなどはごく一部の女性の扇動に多数が付和雷同した例が
多かった。 大多数の女性は男尊女卑の環境をぬくぬくと享受し
て、権利の拡張に伴う責任を回避したいと考えているのが実情で
はないか? 
現役時代、年商5~10億円規模の新商品による事業を立ち上げた
ときのこと。社内に、女性には小間使い的な仕事しか与えられず、
客先にいくことも無い、昇進のチャンスも無いと不満を公言する
女性がいた。確かに、当時そのような状況もあり、女性の能力を
見くびり、それを活用しようなどという考えは全くなかった。
偏見の一種である。
そこで僕はその言動から営業活動で能力を発揮し得るものと直感
し、新製品の拡販員として引き抜くべく活動を開始した。本人が
興味を示したので、前例が無いという理由で渋る人事部を説得し、
条件を整えたが、本人に伝えると、今の部署で自分が居なくなる
と業務に支障が出るからと断ってきたのだ。責任の伴う新しい仕
事より、非難攻撃してきたぬるま湯の現職場の方が居心地が良い
ということなのだろう。
 このように、時の「正論」に便乗して権利は主張するが、責任
と義務は果たしたくないと言う例、風潮に乗って社会を非難する
人が、将にその弊害を助長・温存する当事者であることを自覚し
ていないと言う例は枚挙に暇が無い。これがエスカレートすると、
アングロサクソン優位を唱え、大虐殺を行ったような史実にも行
き着くので、軽々に見過ごすことはできないのだ。

「真」とは普遍と同義語と前に定義したが、科学的事実のように、
条件により変化しないものである。偏見は、その全てを「条件」
に依拠しており、力関係によって変化し得るものだ。この世で普
遍的なものは利害しかないのだから、それをベースにした偏見は、
時の流れとして正しいと言うのは詭弁でしかない。
ここで、価値とは何かという根本問題に立ち返っても、混迷は深
まるのみである。事実たる「真」に対してどうかと言うことから
考えなければ結論は永遠に得られないだろう。
意見を全て排除した、人類としての事実とは、動物として、いや
生物として生存していると言う一点にしかないのではないか?
 日本国憲法第97条では、基本的人権を「人類の長年にわたる
自由獲得の努力の成果であって、侵すことのできない永久の権利」
であると定義している。

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いかのおすし

いかのおすし
 「いかのおすし」というのをご存知だろうか?
   1. 知らない人についていかない。
   2. 知らない人の車にらない。
   3. お声で「助けて!」と叫ぶ。
   4. 連れていかれそうになったらぐ逃げる。
   5. 何かあったら近くの大人にすぐらせる。
を合言葉にしたもので、警視庁が子どもの防犯のために作成した
防犯標語で、小学校を中心に普及に努めていると聞く。

 同じ団地に住むMちゃんは娘の大の仲良しで、毎日のように
遊びに来ていた。ある日小学校の近くを車で通りかかると、Mち
ゃんが大きなランドセルを背負って帰宅の途中だった。車を止め
て「Mちゃん乗んなさい。一緒に帰ろう。」と言うと、悪魔に遭
ったような表情で後ずさりして、乗ろうとはしなかった。

 小学6年生の娘が通っていた学習塾から「知らない大人から声
を掛けられた時の注意書きのようなものが回ってきた。家人に聞
くと、娘が夜帰宅時に「お嬢ちゃん、遅いから家まで送ってあげ
よう。」と声を掛けられ、逃げ帰ったのを塾に通報したのが原因
であるらしい。「黙って、走って逃げた。」と言うので、「人が親
切に声を掛けたのに、逃げるとは何事か!『有難うございます。
すぐ近くですから結構です。』と何故言えなかったのか?」と叱
った。お声で助けを呼ぶことはしなかったが、
ぐ逃げるを実行したのである。

 女児を殺害して死刑判決を受けた容疑者が、DNAの再鑑定に
より無罪となった。報道では、晴れて無罪となった容疑者の声高
な警察・検察への謝罪要求と、捜査の無謀に対する非難一色であ
ったが、理由は何であれ、強制された自白がもたらした社会的な
損失は誰の責任だったのだろうか? 勿論、マスコミは捜査のあ
りかたなど、体制側の問題のみを論(あげつら)えば免責と心得ている。
真はそうではない。
機関が、その固有の職業病で贋を真と強弁し、それを正当化する
ための技術を磨いてきたのは、北朝鮮の洗脳手法などを説明する
までもなく、歴史的な事実であり常識である。
それをけしからんものと考えるなら、彼等の利益に加担するのは
自己と社会に対する裏切りである。如何に苛烈な心理的・肉体的
拷問があろうとも、敢然と立ち向かうのが己に対する正義という
ものだ。こういうと、拷問の凄ましさを知らないからそんな暖気
なことが言えるという反論が出てくるだろう。事は究極の状況で
真贋のどちらを執るかという選択の問題である。贋を執る人は、
自分がいま将に追い詰められている罪状とは異なる犯罪者
になろうとしていることを自覚しなければならない。
真を執る人は自分の命を懸ければ良いだけのことだが、村木厚子
の例が示すように、生きたまま、贋に一矢を酬いることが可能な
こともある筈だ。
ここで少し説明を加えると、このような事態に遭遇したとして、
葉隠れ方式で行くのか、忠臣蔵方式で行くのかと言う選択肢があ
る。山本常朝は、喧嘩を売られたらその場で相手を切り殺し、直
ちに切腹すべきことを述べている。このような美学から言えば、
大石内蔵助の優柔不断は許せないことになる。
葉隠聞書一で常朝は、「赤穂浪士の仇討ちも泉岳寺で腹を切らな
かったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで敵を討つまで
のあいだが長すぎる。もしそのあいだに吉良殿が病死でもされた
ときにはどうにもならないではないか。」「上方の人間は小利口だ
から、世間から褒められるようにするのは上手である。」(奈良本訳)と言っている。
注)四十七志の死因は、短刀は用意されていたが切腹ではなく、斬首。

一方、内蔵助は資金計画書(家計簿)なども残っているように、
仇討ちを失敗の無いように合理的・緻密に計画して目的を達成した。
 拷問の壮絶は、想像の範疇になるが、それに負けたとして残る選
択肢は忠臣蔵方式である。再審請求などのためには、拷問と同等あ
るいはそれ以上に困難とも言える活動に、多くの人々を巻き込まな
ければならないだろう。
岡田嘉子の例は、後者であったが、嘘の自白をした直後(亡命の
1年後)自白を根拠に杉本良吉は銃殺されていたことが最近判明し
た。ついに勝ち取った名誉回復の20年前である。

同じ無罪を勝ち取った厚生労働省キャリアの村木厚子のケースは、
検察の尋問対応も前者とは全く異なったものであったであろうとは
言え、本人が毅然とした対応をしたか、人としての責務(真)を貫い
たか否かで、事柄の真贋は真逆のものとなるのだ。

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食Chauvinistへの返信

食Chauvinistへの返信【全ては思い込みから】
そうです!「自分の身体に合ったものを摂る」
・・・食に関する正道はこれに尽きます。

巷間溢れる食に関する情報や個人の嗜好は、肝心のこの点がスッ
ポリ抜けています。 原因は明確に、①生存本能(≒職業病)と、
②個人の経験をベースにした思い込みの2点であり、ここには
知性のかけらもありません。かと言って、動物が生得的に持って
いる霊的な能力も喪失しているのです。
既にお分かりのことで、小生としても敢えて口に出すのは馬鹿馬
鹿しい限りだが、この2点が世に及ぼしている弊害と、不幸願望
に邁進する衆愚の悲惨さを考えると、口を開くのもあながち無駄
ではないのかな~~
とは言え、口を開けば命懸けの猛反撃に会い、当方の親切心は反
って相手の思い込みを強化・確信に変える可能性の方が大きく、
やはり言わずムッツリを決め込んだほうが世のためにも良いのか
な~~ 衆愚には自分の考えと言うものが無いのだから、「自分
の身体に合ったもの」と言っても何の事か分かる筈も無いしな~
だが稀に同調してくる輩には善を施すことになるのかな~~ 
いやいやそんなことは無い。新興宗教と勘違いされ、Hysteryに
加担するだけのことだ。(以上独言)

公理1.万人に共通の価値というものは無い。
主体的な意思から価値は醸成される。
    宗教(思われているより次元はかなり低い)を否定する
ものではないが、価値を共有していると思っている多く
の集団が、勘違いとHysteriaで成り立っている。
公理2.万人に共通の癖は、自己防衛本能である。
    「人間は考える葦」と言うのは大嘘です。 従って、
公理3.思い込めば、それがその人の(擬似的な)価値となる。
    Placeboは、物理的・生理的に無価値なものを価値に
変換する効果を言うが、物理的に明らかに有害なもの
であっても、思い込みは主観的に価値となり、害毒が
抑制されるどころか、(その人にとって)有益になる
こともある。
公理4.人間としての究極の目的は、霊性の進化である。

以上の公理を理解すれば、世の中の構造は透けて見えるようにな
ります。 悪逆な現象も、幼稚な言動も、当たり前の風景として
鑑賞することが出来るようになります。
自己に執着する保身の幼児性とも無縁となり、他人、世の中、
(いや、宇宙)が先だと言う考えになります。
(中学生時代の論理的帰結「最大多数の最大幸福」は、歳をとる
毎に思い込みが強くなり、確信となっている。)

以下、釈迦に説法かもしれないが、普遍的に流布している珍妙な
現象の例を示し、上記公理の解説とします。

①価値観の押し売りは犯罪である。知識を売りなさい。
 「日本人は白米を食うから頭が悪い。パンを食え。」と言った
作家でもあった慶応大学教授の言は、戦後の食生活を洋風化し、
肥満を初めとするする国民の体質劣化に革命的な効果があったが、
近年になってようやく《頭が悪いからこのような嘘をいった》と
いう認識が広まってきた。この類の犯罪は後を絶たず、いまだ跋
扈している。
 先日も、テレビで大学教授?氏がヨーグルトを毎日大量に食し、
結果として腸内ビフィズス菌が通常人の?倍もある→だから健康、
ヨーグルトを食べなさい。と自慢しているのを見て仰天した。
見るからに鬱血体質で健康体にはどうしても見えなかった。
 一方、最近読んだ「病気にならない生き方」は、多くの著名人
を信者に持つと誇る医者(内視鏡の開発者)新谷弘美氏の近著
だが、「流行の健康法には嘘がいっぱい」は良いとして、ヨー
グルト・乳製品を常食している人の腸相は30万件の診断例から
例外なく悪い、特にマーガリンは最悪と、その理由を詳細に説
明している。(氏が30年間365日診断を続けたとして、毎日
28件程の診断がどの様に可能であのかは不明。乳製品害悪論は、
Dr.Weilが言いだしっぺ。)
  我が母は95歳で「痛い、苦しい、見えない、聞こえない」
と言いながら健在だが、「牛乳を毎日飲むから、骨太で丈夫」
と何時も威張っている。90年以上実行してきた”健康法”を、
健康に悪いから止めなさいと言うのが正しいだろうか?
  75歳にして名著「陶工河井寛次郎」を上梓した、いま92歳
の橋本喜三は、「君の家に来ると、遠慮なく煙草が吸えるから
なぁ~」と、さも旨そうに数本くゆらせてお帰りになる。
健康に悪いから止めなさいと言うのが正しいだろうか?
(橋本喜三;朝日新聞美術記者。産経の司馬、朝日の橋本と言われた。)
 この様な例は、出したら切りがないが、公理1.を理解してい
ないから、恥ずかしげもなく言えることである。主観的に良いこ
とが、その人にとって良い(当たり前だが)、そして実際に良い
結果が得られることもあることが、多少問題を複雑にするだけで
のことある。「あなたは、思い込みの故に損をしている可能性が
ありますよ」とは言えるにしても、余計なお節介だ。人の嗜好に
口を挟むのは禁じ手である。
 また、この様な犯罪が後を絶たないのも、公理2.によって明白
である。「私の場合は」と入れると、ローカルな意見となり権威
付けが出来ない、本が売れないというのが本人が意識していない
直接的な原因だが、真の理由は「考えない、人間が分かっていな
い!」と言うことである。 理屈を言うのなら、どんな命題であ
れ、正反対の結論を出すことなぞ朝飯前のことだ。

②自分の肉体船を知ることができるか?
  リフォーム工事中は、一ヶ月間一人で轟音と荷物の山の中にい
たが、水をやめて世の大勢が薦める豆乳等栄養食品のみを試して
みた。10日位から身体が浮腫んだようになり、頭の働きが明らか
に低下してきた。水のみに戻して、神通力が回復するのに4~5
日を要した。(注;このような実験は、思い込みが少しでもある
と正しい結果は得られない筈だ。)
NHKや栄養大学の先生の言を真に受け、自分の身体を知らないまま
に健康法を実行することが、痴呆の衆愚を量産しているのだ。問
題は、グルメがExecutiveの特権と勘違いしたか、旨いと思うも
のばかり食い続け、自分に合わない健康法を実行している人々は、
自分は健康と思い込んでいても、身体と言うより、頭脳・人間と
しての霊性が瀕死の状態にあると言うことである。

③公理4.は幽体離脱して3次元を飛び越えた経験がないと、理
 解が困難(際物と勘違いされる)なので省略する。(Climbers
-Highを経験したことがあるなら、お話ししても良い。)

以上は、食に関する自分の理論を最上のものとし、世の迷妄を
慨嘆することを趣味とする御仁への返信だが、自分の理論を褒め
られたと思ってか、「このメールを心ある人々に転送しても良いか
?」ときた。『小生は怖れることが何も無いから、転送は自由です。
ただし、貴女の理論の賛同者が増えるもになるのか、反感を持た
れるものになるのか、小生が結果に責任を持つことはできません。
例えば、うまいものを食ってばかりいると霊性が低下するというの
は説明外だが、Yさんなどは確実に反発してきますよね。
結果、憎悪が小生に向けられ、暗殺の対象となったとしても、決
して文句は言いませんが・・・』と回答したがどうなったことやら。
返信メール自体、他人から評価されることを生き甲斐とする人に
対する返信でしかない。「以上の公理を理解すれば、悪逆な現象
も、幼稚な言動も、当たり前の風景として鑑賞することが出来る
ようになります。」と書いているが、お分かりの通り真っ赤な嘘。
もしそうなら、こんな文章を書く訳がない。

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常識の嘘(その1)

常識の嘘(その1) 
“常識”は、日常生活に広く定着した便利な言葉である。
広辞苑を引くと、常識=Comon Sense(英)とあり、ついでに類語
の良識を引くと、Bon sens(仏)とある。Common もBonも相対的
な概念を示すものだから、明確に白黒をつけるものではなく、
「多くの人が正しいと思っていること」を常識と言うのだろう。
「あいつは常識が無い」「そんなことは常識で考えろ」などと使わ
れるように、常識はあたかも正義あるいは正論であるかのように
思われている節があるが、相対的なものであるいじょう、真贋を決
するものとはなり得ない。そう言えば、正義も正論もご都合によっ
て使い分けられる怪しげな言葉である。

ここでは、「常識は真ではない」こと、我々は真でないことを根拠
にして、損失を甘受していることを僕の実体験の中から述べる。

その1. 生き甲斐が生命を支える。
 父方祖母は、女子高等師範学校の教師だった。当時としてはイ
ンテリの部類にあったと思うが、しっかりもので終戦直後の食糧
難の時代に、6人の孫のため、社宅の裏の畑で夜遅くまで野菜な
どを植えたりしていた。
ある日、自転車に乗ったおじさんが来て「おばあさん。そこには
社宅が建つから、野菜を植えても無駄ですよ。」と言われた。
お婆ちゃんは父に、「貴方の会社はひどい」とか言ってふさぎこん
でいたが、病気をしたことも無い人が3日目に寝込み、食事も通
らなくなってしまった。心配した母が有名病院の院長に頼んで往
診して貰ったが「老衰です。食べたいと言うものがあったら、藁
でも結構。心配することはありませんよ。」とのご託宣であった
が、なんと一週間後に亡くなってしまった。

その2. 楽しいことが生き甲斐となる。
 僕の母は幼児、虚弱児童と診断され、女学校に至るまで体操の
時間は見物のみであったという。こんな母を、教師の祖母が「大
事にしますから。」との懇願で長男の嫁にしたのだが、嘘か本当
かは分からないが、大変な嫁いびりをしたらしい。母からは散々
にこの苦情を聞かされ、また不定愁訴を訴える母の苦しむ様子に、
小さな胸を痛めてきた。兄弟長ずるに至っても、胆石の手術をし
たり、常習的に不定愁訴を訴え、これに6人の兄弟が過剰とも言
える看護をしてきたのだが、兄弟全員が独立し、父が死去した
60代後半から暇ができたこともあり、海外旅行をするようにな
った。フランスに居た妹や、ホームステイさせていた台湾の高砂
族の子息の集落に行くことが多かったが、一人で一ヶ月以上も行
くのだ。台湾では林檎園で収穫や箱詰めなどの作業をやるらしい。
常識的には、一ヶ月も海外旅行をすると、しばらくは僕でも疲れ
が出てくるものだが、母は正反対。あちこちにお土産を配る国内
旅行をしたりと、元気そのものだ。これが一段落して国内で鬱屈
していると、またぞろ不定愁訴を訴え始める。「また、外国にい
ったら?」と言うと、目が輝いて旅行計画を練り始める。
このような繰り返しが90歳半ばまで続いた。
老婆が一人旅をしていると、周囲は上を下に置かない配慮をする
であろうし、また、ねえや、ばあや任せで殆どやったことのない
労働が、意欲の源泉になったのだろう。
90歳後半になると、さすがに体力も衰え、またボケも始まったが、
健康模範生の運動選手もいた同期の友達の全員が亡くなった今、
母は102回目の正月を迎えた。(2012年元旦)

その3. 楽しいことをやっていれば疲れない。
  僕は高度成長時代の典型的な企業戦士だった。
東京出張で徹夜をしたのだが、翌日は京都本社で僕が召集した重
要な会議があるので、どうしても帰らなければならない。夜行寝
台を求めようとしたが売り切れで、しかたなく座席指定を確保し
た。(夜行銀河には、座席指定車が一両ついていた。)
徹夜は二日に亘り、食事も喉に通らないほど疲労困憊していたが、
座席につくと妙齢の美人が隣席についたのである。「お若いのに
一人で夜行とは勇敢ですね。」から始まり、その婦人との会話が
始まった。話が音楽や哲学の話になり、相当な教養の持ち主であ
ることが分かった。常日頃話そうにも相手がいないと思っていた
僕は、話に夢中になってしまった。相手も話好きの聞き上手で、
浜松で駅弁を買ってパクつくやら先程までの疲労困憊はどこへや
ら、とうとう京都まで話し込んでしまった。3日徹夜である。
会議には興奮の余韻を引きずって出席したが、自覚的に疲れを感
じることが全く無かった。これには当の僕自身が心底驚いてしま
った。疲れや眠気は言い訳したい時のものじゃないか!

その4. 腹がへったら戦ができる。
 現役時代の僕は、就寝前には正座して「葉隠」を読むなどの癖
があったが、食について疑問が起こり、断食することを思い立っ
た。信貴山道場に申し込もうと資料を取り寄せたが、一週間、ま
してや一ヶ月断食となると仕事に支障が出ることは必定。企業戦
士たる僕には不可能事だと思い至った。
そこで、会社に勤めながらやろうと、断食関連の本を50冊位買
い込んで勉強を始めた。ここから得られた知識、確信は別に述べ
る心算だが、薄々感じていた食の常識を打ち破るものだった。
約10人、10種類の断食法は、医者から見離された人々が独自に
開発したもので、有名な西田式は医者から言われたことと、悉く
正反対の方法を確立したものだが、近代医学が如何に幼稚な所見
で成り立っているかを認識することができた。文字通り十人十色
の方法だが、10人に共通することがあることも納得のいくこと
だった。ここではこれを述べないが、僕は自分の納得のいく方法
を取捨選択して実行することにした。
断食の全工程は、大雑把に減食-絶食(水のみ)-復食で、減
食・復食にそれぞれ一週間、絶食に1~2週間が目安である。
この間、虫下し、水酸化マグネシウムの飲用、水浣腸など細々し
たことがあるが省略する。断食後の変化は、体重10~15kg減、
LDL50~70減、過酸化脂質は当然ながら大幅減などであるが、
肝機能の指標が多少悪化する。この理由は、医者に聞いたり本で
調べたりしたが分からなかったが、最近病院の副院長から
KwashiorkorとMarasumus(途上国の子どもが、腹を大きく膨
らませた飢餓症状の病名)の話を聞いて納得することができた。
詳細を省略するが、一時的な栄養失調である。
 本論を逸れてきたが、真の効果は、一週間も過ぎると猛烈な飢
餓意識が無くなり、体が軽くなり清澄な気分になれること、熟睡
できて睡眠時間も短くて済むことなどである。断食中に現場に出
てかなりの重労働をしたこともあるが、周囲の者が驚くように、
これは通常時と全く変わりなく仕事ができた。この物理的な限界
は、恐らく体内脂肪を使い尽くすところだと思われる。
ここでの結論は、食わないと腹がへる、食わないと力が出ないと
いう常識の嘘であり、食わないからこそ充実した戦意と成果が出
せるということである。

大逆転:
 このような常識を覆す事例は、何も僕の経験に限ったことでは
ない。良く経験する事例は高校野球にもある。9回裏2死からの
大量得点で逆転勝利するなどの例は、良く見聞きすることだ。
「こういった逆転劇の中でも特筆すべきは2002年7月20日の
第84回全国高等学校野球選手権大会大分大会予選2回戦の緒方
工と中津北の試合である。この試合は天候がそれほど良くない状
況で行われ、9回に雨が激しくなり投手の制球が乱れ緒方工は7
点を追加し14-5となりダメ押しをしたかと思われた。ところが、
この状況は相手投手にとっても同様であり9点差で迎えた9回2
死満塁から、タイムリーでまず2点、5連続四球で押し出しで4
点、ショートのエラーで1点、そして3点タイムリーで計10点
を奪い、14-15で逆転サヨナラという前代未聞の結果となった。」
(Wikipediaより)
2011FIFA女子ワールドカップでの、なでしこジャパンの優勝も
これに類する精神的な要素が働いた例かもしれない。

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真贋 序

真贋序 
 人類の歴史は、飢餓の克服と、自由の獲得という二大テーマの
展開の歴史であったと言っても良いが、その大部分を獲得した国
家・個人は、果たしてその果実を自分のものとしているであろう
か? 衣食足って礼節を忘れ、無制限の自由を獲得して節操を失
っているのが現実であることに異論は無いだろう。
これは、自分で考えようとしないことに端を発しており、現世の
ほぼ全てのアノミーはここに発し、自分で自分の首を絞めている
のであることを述べるのが本稿「真贋の裏表」の目的である。
従って、本稿は僕の経験と論理的思考が全てであり、常識とか権
威というものと全く無縁のものだから、他の経験をしたり、権威
を獲得した人にとっては我慢のできない異論が多々出てくるだろ
う。非難攻撃は勿論ご自由だが、それに反論することは無いだろ
う。本文から「真」を汲み取って頂くほかは無いと考えるからで
ある。理屈などというものは、正反対の結論を尤もらしく出すこと
など朝飯前のことでしかないのだ。更に、「坊主憎けりゃ袈裟まで
憎い」という大方の普遍的な癖がアノミーをアノミーたらしめる
のである。

真とは何か? 贋とは何か?
これを善悪の基準として捉えると、その定義が確立され得ない以
上結論が無いことは歴史の証明する通りである。然らば、真贋と
は永久に自家撞着を繰り返すのみの概念でしかないのだろうか?
ここで定義する真贋とは、「普遍」と同義語としての概念である。

人間の営為は、観念的には一貫して“幸福”というような主観的
な損得を追求するものであろうが、その多くを獲得したとき、人
は決してそれに満足することがなかった。これは完全な充足が保
証されなかったからではないだろう。充足の概念は一般化できる
ものでなく、人の欲望は無制限に拡大する余地があるから、ゴー
ルはないのであろう。
イデオロギー、思想、宗教といえども、その究極の定義は問われ
ることはない。モスクを埋め尽くす集団の見事に統制された礼拝
の儀式も、様々な価値観の寄せ集めでしかないだろう。

このようなAnomieを解決しようと格闘を続けてきたのも人類の
歴史である。例えばデカルトは、真贋を誤りなく判断する方法を
追求し、「方法序説」1)を著した。原題は「理性を正しく導き、諸
々の知識の中に真理を探求するための方法(序説)」だが、小林秀
雄は「方法序説などという堅苦しいものでなく、方法の話とかも
っと大胆に『私のやりかた』と砕いて訳した方がもっといい。」2)
と言っている。
「私のやりかた」は一時代の思想界を風靡したものだったが、そ
れがイデオロギー、思想、宗教にまで敷衍され普遍となったかと
いうとそうではない。デカルトは「方法序説」第一部の書き出し
で「わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性
があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を
異なる道筋で導き、同一のことを考察していないことから生じる
のである。良い精神を持っているだけでは十分でなく、大切なの
はそれを良く用いることである。大きな魂ほど、最大の美徳とと
もに、最大の悪徳をも生み出す力がある。」と言っている。
歴史を振り返ってみても、人の営為の多くが応用面では良く用い
られることが無く、教義を精緻化するほどに人類に惨禍をもたら
してきた。表面的な惨禍として代表的なものは戦争であるが、歴
史上最大の殺人を行ってきたのは宗教であった。

この世で普遍となったものがあるだろうか?
あらゆるイデオロギー、思想、文化、宗教で普遍となったものは
皆無である。過去から現在に至るまで普遍であったのは、統制さ
れることのなかった人間の欲望のみである。
例えば、共産主義はその崇高な理論に異を挟む余地は無いように
思えた。僕を含め、若い人々は「共産党宣言」に酔いしれたが、
その文学的な扇動に乗ったものの、人間とは何かという根本問題
まで洞察することができなかったことが暴露された。
即ち、人間の欲望というものが如何に多様で、常に自由を求める
ものであるかという歴史的事実に思い至ることがなかった。その
結果は、必然的に全体主義へと向かい、共産主義は一思想として
は史上最大の殺人を犯すに至ったのである。
(主義・主張が目的達成のためにどれだけの人命を犠牲にしたか
は、「計量革命学」の項で述べる。)

歴史上、主義主張が崩壊した原因は、例外なく内部矛盾である。
真贋の見極めができなかったための自己崩壊である。
このように、人間の欲望・損得に関する規範は、普遍化すること
ができなかった。真贋を確定することができなかった。

Bertrand Russel は、哲学とは正確な知識を云々することのまだ
できない事柄についての思弁で、哲学者が二人揃って同じ答えを
することは無い、とDescartesと同様のことを言っている。
また、哲学には、仮説の領域で想像的世界観を広げることと、知
識のように見えるものが、如何に知識でないことかを気付かせて
くれるという二つの効用があると言っている。
愛とか善のような抽象概念は言うに及ばす、ノーベル賞にも創設
された政治(平和賞)や経済も科学になり得ないものであること
は自明であろう。これをなり得るものと断定するのは、際どい仮
定の上に成り立つ原理主義のみである。
ノーベル経済賞受者2名を含むヘッジファンドLTCMは、空前
の金融破綻をもたらしたし(1998年)、Black-Scholes方程式を
始めとする最新の金融工学を駆使したと言われる、リーマンブラ
ザーズの破綻(2008年)も記憶に新しいところである。
一方、事柄が真に達すると哲学は科学という知識になるが、地動
説の例を引くまでもなく、科学とは損得や善悪とは無縁の知識で
ある。これを真性の“真”と言おう。
されば、この世が真性の真で埋め尽くされたとき、即ち、あらゆ
る事柄が疑問の余地がなくなるようなことがあり得るかというと、
勿論あり得ないことである。科学教とでも言うべき、このような
原理主義的な悪魔的救済を求める思想は、形を変えて過去に嫌と
言うほど現れては消えてきた。価値が固定化できるという勘違い、
価値と事実の取り違えである。
(この事例については、「ユートピアの悲惨」の項で述べる。)

真贋の論議は、有史以来延々と行われてきたが、ここで僕は先哲
の後追いをしようとするものでも、新しい思想を確立しようとす
るものでもない。もとよりそのような能力がある訳も無く、また、
同じ轍を踏むことが明白でもあるからだ。
ここで述べようとしているのは、ごく小市民的な立場で、真贋を
無視した思考や行動が、如何に膨大な損失を人類にもたらしてき
たかということ、自業自得の結果を、他人の誤りの結果であると
して、その論拠の確立に悪戦苦闘する、その風景を再鑑賞しよう
とするものである。
自己の利害を無意識にも補強しようとする言動(職業病)、その
扇動に乗って、主体的に考えようともしない(時として自分自身
を含む)衆愚への怒りでもある。

ひともすなるBlogといふものを、われもしてみむとてするなり。
1) René Descartes「方法序説」岩波文庫
2) 小林秀雄「常識について」文春文庫

タグ:真贋
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