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科学、直感、オカルト

 科学とは、広辞苑では「観察や実験など経験的手続によって実
証された法則的・体系的な知識」と定義している。これは前に述
べたように、真性の真と言うべきもので、真贋の観点から再定義
すると、「同一条件で検証すれば、誰が何時何処でやっても必ず
同一の結果が得られること。」と長らく思ってきたが、これは近
年の量子力学で得られた知識で否定されることになった。この結
果、ボーアなど多くの科学者が、東洋思想に傾斜することになっ
たのは周知のことだが、これは個人的には次元の問題と係わりが
あると思っている。(この問題に関する考察は別項で述べる)
 ここでは、そのような問題ではなく、「科学的」を語って不当
な利益を得ようとしたり、葵の御紋のように振りかざす科学音痴
やそれに惑わされている衆愚とその弊害について鑑賞してみたい。
 
地動説はコペルニクス(1473-1543) やガリレオ(1564-1642)が
言い出したことと思っている人が多いと思うが、文献上最初に言
ったのは、それより1000年近くも遡ったギリシャ・サモスの天文
学者で数学者のアリスタルコス(BC310-230頃)だった。 アリスタ
ルコスは、恒星と太陽は不動としたものの太陽中心説を唱え、現
代でも通用する幾何学を元に、地球の直径は月の3倍、太陽の直
径は20倍などと計算しているが、これは当時の測定技術が余り
にもお粗末であったことによる。ガリレオと同時代人のケプラー
(1571-1630)は、ケプラーの法則を唱えたことで、天体物理学
の先駆者と言われているが、天文学者の多くがそうであったよう
に占星術家でもあり、数霊術により惑星は6個であるとか、天体
音楽論(プラトンやプトレマイオスもその信奉者)より、宇宙は
音階と数的な統一性により創造されたという考えから、膨大な論
文をものしている。ケプラーの法則は、荒唐無稽の膨大な論文の
中で理論的評価に耐えるものとして、ガリレオ、ニュートンに引
き継がれ、古典物理学の完成に寄与したと言える。
このような直感や霊感に導かれた「形の美しさ」は多くの人々の
心を捉えてきたが、プリニウスなどは「見世物的な精妙さ」とし
てこのような考えを退けている。しかし、真に至る過程で直感は
重要な働きをしてきたと言えるだろう。
 ところが、この直感は、用いられ方によってとんでもない贋を
創り出すことにも注意しておく必要がある。真贋論争の要点は、
それが公知の事実に基づいているかどうかと言うことである。
例えば、地球外生命が存在するかということが巷間良く取り上げ
られるが、これは現代に至るまで人知が到達していない知識であ
り、新しい事実が発見されない限り、その真贋は論述され得ない
ものである。
一部の科学教教徒は、SFのような世界はあり得ないと主張するが、
この宇宙に生命が生存しうるHabitable Zoneがどの位存在するか
を考えた場合、未だ確定的な知識はないものの、文字通り天文学
的な数になることは間違いのないところである。高等生物が生存
するのは我が地球のみと断言するのは、見えないところにあるも
のは存在しないと言うに等しく、真贋を無視した別の意図がある
と言わざるを得ない。
注:太陽系の属する銀河系には、2千億以上の恒星があり、全
宇宙には銀河系規模の銀河が1千億個位あると推定されている。
即ち、我が太陽系と同等の条件が200垓個あってもおかしくない
訳で、地球のようなHabitable Zoneはぐっと絞られるであろうと
根拠無き想像はするものの、その中の1個(太陽系)についても
火星探査で大苦労するレベルであり、他の恒星系については、全
く未知なのだ。 
地球外生命体探査は、1960年代以降世界中でオズマ計画などを
始めとする数々のProjectが実行されているが、現在に至るまで
確定的な情報は得られていない。
 このような真っ当な試みとは反対に、科学を語った贋は、一向
に衰える気配が無い。ニュートンは英国国策の偉人だから、本当
に言ったかどうかは知らないが、「我々は大海の砂浜で、一粒の砂
と戯れているに過ぎない。」と言ったそうで、これは科学が未だ極
めて限定された部分の知識でしかない現代人の常識にも一致する。
 「科学」の言葉を冠すると、人は無条件に信じる癖があるようだ
が、とんでもない「科学」もある。その代表例が「ニセ科学」
である。大阪大学の菊池誠教授は、そのHPで、浩瀚かつ綿密な
ニセ科学批判を行っている。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/index-j.html
その矛先は、マイナスイオン、波動、水の結晶、ホメオパシー、
ゲルマニウム、EM菌、七田真、等々多岐に亘るが、これ等は何
れも事業として成り立っているものばかりである。
詳細は氏のHPに譲るが、マイナスイオン発生器(空気清浄器)
に至っては、わが国を代表する家電メーカーまでが製造しており、
さすがに近年は根拠無き効能を謳うようなことは控えたり、撤退
したりしているそうである。この様なニセ科学は、無益無害なら
まだしも、世に実害を及ぼすことが多々あるので、等閑視する訳
にはいかないものだ。
「水の結晶」は、江本某が考え出したニセ科学だが、水は言葉を
理解するというものだ。水に「ありがとう」などの言葉を見せて
結晶を作ると見事な形の結晶となり、「ばかやろー」などの言葉
を見せると、醜い形となる。ニセ科学を本業とする(?)たま出版
ならまだしも、講談社から著書が発行されていたり、これを道徳
の授業に取り入れている学校もあるというから驚く。
オカルトを授業で教えているのだ。
「平等」を履き違えて運動会での競争を止めたり、成績表を廃止
した教師達が連想されてくる。教師と言う職業人(ピンからキリ
までだが)が如何に常識が欠落しているかを示す典型例である。
 菊池教授は、ニセ科学の弊害の典型的な例として、有名なルイ
センコ事件を挙げている。ルイセンコは、ソヴィエト連邦におけ
る遺伝学の権威者だったが、スターリンに取り入り、メンデル学
派の学者達をブルジョワ的と言う理由を付けて追放した。
このため、ソヴィエト連邦の遺伝学は10年以上遅れたと言われ
ている。
このように、贋のネタは政治にも利用され、利害や風評が触媒の
役割を果たすのだが、基本は菊池教授も強調するように、主体的
にものを考えないということである。
 風評による流行は、健康食品と言われるものに多くの例が見ら
れる。近年では、野菜スープ、ビール酵母(2001)、豆乳(2003)、
黒酢(2004)、寒天(2005)、納豆(2007)、バナナダイエット(2008)、
トマトによるメタボ改善(2012)等々。またサプリメントも大ブー
ム中。
僕は良いと言われるものは比較的従順に取り入れる方だが、その
喧伝する効果を実感したことは一度も無い。多くの人は食事を薬
と思って食っているのだろうか? 薬とは毒の一種である。

ある高齢者向けの講演会で、まごわやさしい(豆、胡麻、わかめ、
野菜、魚、椎茸、芋)と言う話があったが、参会者の半数近くが、
心して毎日摂取していると挙手したのにびっくりした。
これなどは、医者の言い訳に乗せられただけのことだ。「貴方の
病気は**が不足したから起こったものです。」と。「いかのおすし」
と同根で、人を馬鹿にした話である。多種類の食品を同時に摂取
したら、食事の旨さも、有難さも半減し、人としての機能も低下
するに違いない。禅宗の僧侶の食事は、一汁一菜で、決して多種
類では無い。僕は食の優等生と言われるフランス料理のフルコー
スを食した後に嘔吐する不思議な経験が度々あり、長い間原因が
分からなかったが、今ではソースを始めとして多種類の食材が使
われた人工の味であったためと思っている。ついでに言うと、
食後のデザートは、服膺玩味した食事の余韻を一気に消し去るも
のであり、味覚と消化の能力を低下させるものと心得ている。
これなどは「僕の場合」と言うト書き付のもので、真はこうだと
言っているものではないが、大多数の人々がそれぞれの職業病で
作り上げられた迷信に左右され、疑うことが無いことを言ってい
るのだ。
 話が少し逸れたが、「オカルト」の考え方について述べておき
たい。Occult(隠されたもの)とは、神秘的なこと、超自然なさ
ま。(広辞苑)とある。僕の定義によると、広義には科学的な事
実に至っていない事柄、即ち「贋」を言う。この世の圧倒的な部
分、政治や経済・文化を含め、オカルトである。真に至っていな
いから贋という訳ではなく、評価を確定することができない現象
群=オカルトの中で我々は生活しているということである。
条件付で真と認められている万有引力の法則も、目で見たり、触
れて感じることができないと言う理由で、同時代の学者からはオ
カルトの非難が浴びせられていたが、実験検証により事実(真)
と認められるようになった。

 「百匹目のサル現象」というのがある。これは、Lyall Watoson
が著書「生命潮流」の中で、創作した疑似科学に分類される生物
学上の現象である。幸島の一匹のサルが芋を洗って食べるように
なり、それを真似るサルが閾値(Watsonは百匹と仮定している)
を超えると、その行動が群れ全体に広がり、更に場所を隔てた高
崎山のサルに突然同じ行動が広がったというもので、「新自然学」
の確立を目指し、自然現象と超自然現象を生物学的に説明しよう
としたものだ。これにニューサイエンス系の“志操高き”人々が
飛びつき、船井幸雄など多くの人々がお追従の著作をものしてい
る。(船井幸雄、七田眞「百匹目のサル現象」など)
船井幸雄は度量の広い人らしく、幸塾セミナー(京都国際会館で
開催)には毎年2千人位の聴衆が詰めかけていた。僕も3回ほど
参加したが、例の江本教祖など、菊池教授のHPで槍玉に挙げら
れた人物の公演などがあった。一番面白かった出し物は、壇上に
数十人の聴衆を立たせ、船井氏の気合で体が硬直し床に手がつか
なくなるというものだったが、一人だけその催眠に掛からない人
物がいた。明らかな反抗姿勢に僕は拍手した。
「百匹目のサル現象」は、Watsonが引用したという河合雅雄の
論文に引用された筈の記述は無く、伊谷純一郎などのサル学者も、
Watsonが言うような事実は無いと言っているそうだ。
河合雅雄は「文化は同時発生するもので、芋洗いも世界同時革命
も同じ。100人が信じたら世界は変ると言ったら、宗教家は皆そ
の話をしたがるでしょうな。」と言っている。
この言葉の通り、サル現象を中心教義とした宗教集団がある。
(彼らは宗教とは言わないが)マハリシを教祖とするTM集団で
ある。(TM:Transcendent Meditation. 超越瞑想)TMの理屈は、
1%の人々が念ずるとその思念は集団全体に及ぶというもので、集
団瞑想で世の中が良くなると言う。船井氏も信者の一人だ。
僕は10万円弱を払い、果物を供えた儀式を通過して入団したが、
目的は麻原彰晃とTM信者の行うダルドリー・シッディの違いの
理由を知ることだった。ダルドリー・シッディとは空中浮揚のこ
とで、結跏趺坐の姿勢で飛び跳ねるように浮遊するそうだ。写真
で見ると、麻原の浮揚は苦渋に満ちた表情をしているのに対し、
TM信者達が円形に集団で行う浮揚は、喜びに満ちている。
TMは、際物と勘違いされると困るという理由で、これをひた隠し
にしていると物の本に書いてあったが、教団事務所には集団シッ
ディの写真がデカデカと貼ってあった。

タグ:オカルト
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